現在の閲覧者数:
<< 放射能災害をこの目で【1日目】 超党派「脱原発議連」が現地調査 | main | 請戸小学校を訪ねて【2日目】超党派「脱原発議連」が調査 >>
時は3.11のまま〜浪江町【2日目】超党派「脱原発議連」が調査
 2日目は浪江町の馬場いさお議員(日本共産党)の案内で、浪江町に入りました。

 浪江町は震災時の人口2万1434人。私の住む平群町とちょうど同じくらいの規模です。福島第1原発が立地する双葉町・大熊町から約5〜10キロ北に位置し、漁業や酪農、養蚕業などで栄えた町です。「駅前の飲み屋街がにぎやかだったねぇ」と馬場議員は振り返ります。

 津波などで182名の方が亡くなられ、その後、震災と原発災害に関連して285名が亡くなられています。放射能汚染により居住が許されず、現在は居住者ゼロ。二本松市に仮役場と主な仮設住宅を設置しており、二本松市・いわき市・福島市など県内に1万4500人、県外に6500人が避難されています。

 この4月から避難指示の線引きが見直され、居住の可能性が高い順に「避難指示解除準備区域」居住制限区域」「帰還困難区域」の3段階に再編されました。「帰還困難区域」は1日の立ち入り人数が制限され、原則1ヶ月に1度しか立ち入れない、5年以上にわたり居住制限がなされるなど大きな制約があります。町土の大半がこの「帰還困難区域」になります。一方で、役場があり商業施設などが密集していた沿岸部は、許可があれば昼間の立ち入りが可能な「避難指示解除準備区域」となったことから、役場を再開。18名が南相馬市などの借り上げ住宅から通勤し、除染、インフラ整備、避難者支援などの業務にあたっておられます。

 私たちははじめに、この役場を訪れ、復旧事業課の職員の方からお話をお伺いしました。

 震災直後、いったんは原発立地の双葉町からの避難者を受け入れましたが、翌12日夕方、第1原発20km圏内に避難指示が出されました。多くの住民が着の身着のままで避難。いったんは原発20km圏外に位置する同町津島地区に避難した住民が多かったのですが、ここが最悪の「ホットスポット」だったのです。子どもや若い女性を含む多くの住民を被曝させてしまったことを、いまだに悔やみ、「政府と東電はなぜ情報を示さなかったのか」と憤りをあらわにされていました。

 多くの住民が被曝し、今もなお健康不安が強いため、子ども、妊婦を中心に内部被曝検査を実施したり、ホールボディーカウンターを診療所に設置する、被曝状況を管理する健康手帳を配布するなど、取り組みを進めています。また、長引く避難生活から健康を害する住民が増えており、生活支援が欠かせないとのことです。


 午後からは浪江町の中を案内していただきました。

 放射能災害により立ち入りが禁止されていたため、3.11で時間がとまっています。津波で流された自動車や船がそのまま放置されており、崩壊した家屋もそのままです。田畑は草まみれの草原と化しています。商店街の方々も、そのまま避難したため、貴金属店や酒屋などは窃盗の被害にあったそうです。避難する前に開放された牧牛が野生化しており、至る所に「牛との衝突事故多発、走行注意」という看板がありました。

 馬場議員からお借りした線量計は、ところどころで「ピーッピーッ」と、急激に線量が上がっていることを知らせる電子音を鳴らしました。役場付近は平均0.7〜1.3㍃Sv/h程度でしたが、街中を歩くと急に2.8㍃Sv/hになるスポットがあったりします(参考までに、奈良県は0.03〜0.05程度です)。

 誰もいないシンとした静かな街を歩くだけで、とてつもない寂しさに襲われ、涙があふれます。あまりにも衝撃的な現状に言葉をなくします。

 安倍政権はこの現状をみてもなお「原発再稼働は必要」といえるのでしょうか。どんなことがあっても、原発はなくさなければなりません。
 


 ↑人が立ち入れず、復興どころではない。3.11でとまったままの浪江町。


 ↑かつては賑わった浪江駅。乗客も駅員もなく、線路は草だらけ。


 ↑駅前広場に3.11のままの町コミバス。


 ↑再開したばかりの浪江町役場は、18人体制。住民ゼロの町で、道路の保全や除染、住民生活支援、立ち入り許可事務などにとりくむ。


 ↑今井議員、山村議員に説明する馬場績町議。東電が投資して整備された20町歩もの広大な「稲田」が、広大な「汚染草原」に。
カテゴリ:震災救援2011 | 00:46 | comments(0) | - | - | - |
コメント
コメントする