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脱原発議員連盟で宮城県女川町を視察

 ↑宮城県「脱原発・県議の会」の皆さんと、奈良県「脱原発をめざす奈良県議会議員連盟」視察団


 ↑女川原発PRセンターにて、あわや過酷事故だった実態を学ぶ


 ↑海岸から女川原発を調査


 超党派の「脱原発をめざす奈良県議会議員連盟」(山本進章会長・18名)有志9名の議員団で、宮城県・女川町を訪れました。今回の調査は、…蠖59の宮城県議会で20名の議員で結成された「脱原発・県議の会」との交流、同県にある女川原発(東日本大震災の震源に最も近い原発)の実態調査、F姥業再稼働に反対する立地30km圏域住民の会との懇談、を目的に実施したものです。

東北電力・女川原発は「津波に耐えた」と安全神話の普及に利用されていますが、実態は真逆で過酷事故に「紙一重」のところでした。13mの津波に対し、敷地の標高がわずか80cm上回っていたこと、地域住民の長年にわたる粘り強い運動の中で実現してきた「引き潮による冷却水喪失に備えた取水口の掘り下げ」が的中したこと、電源5系統のうち1系統だけが辛うじて残りったこと、などが福島との明暗を分けました。
美しい漁港を玄関口にもつ女川町は、原発立地により産業構造が大きく変化したものの、水産関係を基幹産業としていました。ところが、5年前の津波で町の3分の2にあたる2400世帯が流され、人口の約1割にあたる827名が死者行方不明者となったのです。案内してくださった高野博女川町議(11期目)も自宅を失い、今も仮設住宅暮らしです。
現在女川町では、大規模なかさ上げ工事と新しいまちづくりがすすめられ、養殖業なども回復し、紆余曲折がありながらも復興が進んでいます。高野町議は45年前の立候補・初当選時から「原発の危険」とたたかうなかで原発関係者からも信頼を勝ち取ってこられましたが「過酷事故を食い止めたことが復興に繋がっている」「再稼働は絶対に許してはならない」と話しました。

視察団は最終日、宮城県議会で「県議の会」代表の佐々木功悦議員(みやぎ県民の会)、副会長の中嶋廉議員(日本共産党)、事務局長の岸田清実議員(社民党)の3議員と懇談しました。県議会で脱原発の会を作るにあたっては、電力関係各方面から様々な圧力があったそうですが、それをはねのけて結成に至ったとのことです。遠く離れた奈良県に18名の議員連盟が存在することが励みになったといいます。
現在宮城県では、福島第一原発事故に伴う水産業被害の損害賠償や、稲わらなど放射能で汚染された廃棄物処理をめぐる問題が焦点となっており、議員連盟としても旺盛に県民の立場に立って活動を強めておられます。今後の活動の交流などを約束し、宮城県をあとにしました。
カテゴリ:震災救援2011 | 19:39 | comments(0) | - | - | - |
被災地ボランティアで福島県へ
 8月16日〜18日の3日間、大和郡山市の松田みつる市議(県議予定候補)と、平群町の植田いずみ町議とともに被災地ボランティアに参加。福島県いわき市を訪れ、被災状況調査と仮設住宅訪問をおこないました。 

 私自身は、行政視察3回をあわせると9度目の被災地入りとなりましたが、何度訪れても復興の遅れと放射能災害に衝撃を受けます。どんなことがあっても「原発をなくさなければ!」という思いを強く致します。

 今回は奈良県産のお米100kg、三輪そうめん10kg、梅干し、野菜などを持参し、仮設住宅を訪問しました。楢葉町のみなさんが避難生活をされている小名浜相子島仮設住宅で、2階建て4.5畳が一間もしくは二間の仮設住宅です。

「狭くてこたつが置けない」「夏は暑い、冬は寒い」「聞きたくない隣の会話まで聞こえるので音に気を遣う」「テレビのチャンネルが勝手にかわる(隣の人のリモコン操作で)」など仮設住宅の劣悪な環境をめぐる声。

「水は買っている」「地元のものは食べない」「娘はすこしでも線量が低い地域へと、千葉県に避難した」「原発くらいしか仕事がない」という放射能災害による不安。

「新築の家で被災、ローンはほとんど残ったまま」「家族が3世帯に分かれて住んでいるので生活費は以前よりはるかに増えている」「帰町宣言すれば、住めないような状態でも賠償金は打ち切られるので困る」など賠償金をめぐる要望。

 被災から3年半がたちましたが、切実な実態がよくわかりました。改めて、原発ゼロにむけた運動に力を尽くすとともに、奈良県にも福島県から避難してこられたかたがおられますので、支援の活動も充実・継続しなければならないと思いを新たにしました。



 ↑お寄せ頂いた救援物資


 ↑日本共産党いわき双葉地区委員会で打合せ(右端は党地区常任委員の佐藤敏彦さん)


 ↑仮設住宅を訪問、被災からの3年半の様子をお伺いする


 ↑3.11で時間が止まったままの富岡駅


 ↑仮設住宅に隣接する障害者グループホーム「憩いの家」を訪問
 
カテゴリ:震災救援2011 | 23:23 | comments(0) | - | - | - |
県内避難者と支援団体が、県職員、脱原発議連と懇談

 東日本大震災と原発災害からまもなく3年がたとうとしています。

 復興庁によると奈良県内への避難者は168名にのぼり、そのうち39世帯87名が公営住宅に避難されています。この方々の生活支援に携わっておられるいくつかの団体の皆さんが、連携と交流を重ねておられます。

 今回は、脱原発議連が懇談会を設定。自主避難をされている方を含め、5つの支援団体から17名が参加。議員10名(日本共産党5、元気クラブ4、無所属1)、県の担当者11名と懇談し、率直な意見交換が行われました。

 主な要望項目は〜蠱盟觚の一本化を公営住宅の無償提供延長をH鏈匱圓侶鮃調査をと鏈匱圓僚∀支援をセ童・生徒への学習支援を、です。

 県からは)漂凖括室であらゆる相談をうける¬欺提供を延期し通常の入居として扱うよう変更した3栃欸鮟蠅範携しすすめたいは働局と共同し相談に応じたいコ導惺擦縫ウンセラーを配置し、被災児童生徒には特別な対応をしている

 というものでした。今後、支援団体の皆さんとの連携を深めることを確認し合いました。



 

カテゴリ:震災救援2011 | 08:07 | comments(0) | - | - | - |
今必要なボランティアは?「現状を見に来てほしい」【3日目】超党派「脱原発議連」が調査
 3日目は、二本松市の郭内運動公園(二本松城跡の公園)にある仮設住宅を訪ねました。

 被災から3ヶ月たった2011年6月に設置され、100世帯が入居されています。当初は顔も名前も知らない人たちだったのですが、自治会を立ち上げ、お互いに支え合って暮らしておられます。

 「被災後、お寺、公民館、知り合いの家、小学校・中学校・高校の体育館など、9回も転々とした。連れ合いは精神を病んでしまい、私も1ヶ月以上眠れない日々が続いた。」

 「避難した場所によって、救援物資の状況は様々だった。賞味期限切れのパンやおにぎりばかり食べていた。まともな食事が出来たのは被災してから3週間もあとのことだった。」

 「当然、家族はバラバラ。仕事がないし、放射能も高いので、若い世代は東京や埼玉へ避難している。」

 「仮設住宅は狭く、仏壇もおけない。子どもたちが帰ってきてもホテルに泊まるしかない。」

 「壁が薄く(手で触ると相当熱い)、冷暖房はつけっぱなしでも効かない。移動手段もなく、生活費がかさむ。東電から精神的慰謝料として10万円支給されているが、生活費はみてもらえない。浪江町は1万4千人が、保障の上積みを求めて集団訴訟を行うが、全国からも応援してほしい。」

 切実な話が次々と出されました。

 「いま必要なボランティアは、何ですか?」という我々の問いには、

 「とにかく浪江町の現状を見てほしい。そして、原発について考えてほしい。広島・長崎の原爆は、戦争中の出来事なので、みんな生きるのに必死で考える余裕がなかったと思うが、今は考えられる時代だと思う。原発再稼働がどんな結果を招くのか、ぜひ浪江町をみて考えてほしい。」

 と話しておられました。

 原発災害のこの現状を、多くの人に伝えなければなりません。




 ↑「原発災害は2度と繰り返さないで」と、切実な思いが語られた懇談会


 ↑訪問された方の写真や絵手紙が随所に


 ↑仮設住宅は壁が薄く、たいへ暑い。プライベートも確保できず、健康を害する方も続出とのこと。


 ↑大漁旗をかかげた手作りの集会所。憩いの場として利用されています。
カテゴリ:震災救援2011 | 08:09 | comments(0) | - | - | - |
請戸小学校を訪ねて【2日目】超党派「脱原発議連」が調査
 海岸近くの請戸小学校を訪ねました。

 校内の時計はどれも、津波到達時刻の3時38分で止まっています。当日は卒業式が行われ、全児童180名中約80名が校内にいたそうですが、教職員の誘導により全員が近くの高台に避難し、犠牲者を出しませんでした。

 高さ15mもの津波は、学校を飲み込みましたが、その後の放射能災害で立ち入ることが出来ず、降った美立ち入れるようになったのは今年4月1日からです。

 子ども教材や掲示物は当時のままであり、黒板には今年4月以降支援に入った方々や、卒業生たちの寄せ書きがありました。「この学校が大好きでした。将来、必ず戻ってきます。」という力強いメッセージも。

 原発さえなければ、復興して子どもたちの歓声がこだましていることでしょう。原発は本当に罪深いものです。


 ↑震災当日は卒業式で、80名の児童が校内にいた。体育館は野鳥の住み処と化している。


 ↑津波到達時刻の3時38分で止まった時計


 ↑今年4月以降、立ち入りが出来るようになり、支援者の寄せ書きが黒板に。


 ↑子どもたちが使用していた教材なども当時のまま


 ↑原発さえなければ、復興して子どもたちの歓声が聞こえていただろう。
カテゴリ:震災救援2011 | 22:41 | comments(0) | - | - | - |
時は3.11のまま〜浪江町【2日目】超党派「脱原発議連」が調査
 2日目は浪江町の馬場いさお議員(日本共産党)の案内で、浪江町に入りました。

 浪江町は震災時の人口2万1434人。私の住む平群町とちょうど同じくらいの規模です。福島第1原発が立地する双葉町・大熊町から約5〜10キロ北に位置し、漁業や酪農、養蚕業などで栄えた町です。「駅前の飲み屋街がにぎやかだったねぇ」と馬場議員は振り返ります。

 津波などで182名の方が亡くなられ、その後、震災と原発災害に関連して285名が亡くなられています。放射能汚染により居住が許されず、現在は居住者ゼロ。二本松市に仮役場と主な仮設住宅を設置しており、二本松市・いわき市・福島市など県内に1万4500人、県外に6500人が避難されています。

 この4月から避難指示の線引きが見直され、居住の可能性が高い順に「避難指示解除準備区域」居住制限区域」「帰還困難区域」の3段階に再編されました。「帰還困難区域」は1日の立ち入り人数が制限され、原則1ヶ月に1度しか立ち入れない、5年以上にわたり居住制限がなされるなど大きな制約があります。町土の大半がこの「帰還困難区域」になります。一方で、役場があり商業施設などが密集していた沿岸部は、許可があれば昼間の立ち入りが可能な「避難指示解除準備区域」となったことから、役場を再開。18名が南相馬市などの借り上げ住宅から通勤し、除染、インフラ整備、避難者支援などの業務にあたっておられます。

 私たちははじめに、この役場を訪れ、復旧事業課の職員の方からお話をお伺いしました。

 震災直後、いったんは原発立地の双葉町からの避難者を受け入れましたが、翌12日夕方、第1原発20km圏内に避難指示が出されました。多くの住民が着の身着のままで避難。いったんは原発20km圏外に位置する同町津島地区に避難した住民が多かったのですが、ここが最悪の「ホットスポット」だったのです。子どもや若い女性を含む多くの住民を被曝させてしまったことを、いまだに悔やみ、「政府と東電はなぜ情報を示さなかったのか」と憤りをあらわにされていました。

 多くの住民が被曝し、今もなお健康不安が強いため、子ども、妊婦を中心に内部被曝検査を実施したり、ホールボディーカウンターを診療所に設置する、被曝状況を管理する健康手帳を配布するなど、取り組みを進めています。また、長引く避難生活から健康を害する住民が増えており、生活支援が欠かせないとのことです。


 午後からは浪江町の中を案内していただきました。

 放射能災害により立ち入りが禁止されていたため、3.11で時間がとまっています。津波で流された自動車や船がそのまま放置されており、崩壊した家屋もそのままです。田畑は草まみれの草原と化しています。商店街の方々も、そのまま避難したため、貴金属店や酒屋などは窃盗の被害にあったそうです。避難する前に開放された牧牛が野生化しており、至る所に「牛との衝突事故多発、走行注意」という看板がありました。

 馬場議員からお借りした線量計は、ところどころで「ピーッピーッ」と、急激に線量が上がっていることを知らせる電子音を鳴らしました。役場付近は平均0.7〜1.3㍃Sv/h程度でしたが、街中を歩くと急に2.8㍃Sv/hになるスポットがあったりします(参考までに、奈良県は0.03〜0.05程度です)。

 誰もいないシンとした静かな街を歩くだけで、とてつもない寂しさに襲われ、涙があふれます。あまりにも衝撃的な現状に言葉をなくします。

 安倍政権はこの現状をみてもなお「原発再稼働は必要」といえるのでしょうか。どんなことがあっても、原発はなくさなければなりません。
 


 ↑人が立ち入れず、復興どころではない。3.11でとまったままの浪江町。


 ↑かつては賑わった浪江駅。乗客も駅員もなく、線路は草だらけ。


 ↑駅前広場に3.11のままの町コミバス。


 ↑再開したばかりの浪江町役場は、18人体制。住民ゼロの町で、道路の保全や除染、住民生活支援、立ち入り許可事務などにとりくむ。


 ↑今井議員、山村議員に説明する馬場績町議。東電が投資して整備された20町歩もの広大な「稲田」が、広大な「汚染草原」に。
カテゴリ:震災救援2011 | 00:46 | comments(0) | - | - | - |
放射能災害をこの目で【1日目】 超党派「脱原発議連」が現地調査

 東日本大震災と福島第一原発事故から2年半。原発と人類は共存出来ないことが明らかになり、放射能災害が復興を大きく遅らせてます。

 私も参加する奈良県議会「脱原発議員連盟」は、放射能災害の実態をリアルにつかみ県民に広く伝えようと、8月19日〜21日までの3日間、福島県を訪れました。

 山本進章会長(奈良維新の会)、和田惠治副会長(なら元気クラブ)、阪口保幹事長(無所属)、幹事の宮本次郎(日本共産党)と、今井光子議員(日本共産党)、山村幸穂議員(日本共産党)の6名が参加しました。視察、聞き取りの受け入れにあたっては、奈良県議会事務局、福島県議会事務局をはじめ、日本共産党福島県議団、浪江町の馬場績町議がたいへんご尽力して下さりました。心から感謝申し上げます。


 脱原発議員連盟は1年前、14名の議員で発足しました。その後、1名が奈良市長選挙立候補のために転出し、現在、日本共産党5名を含め、奈良維新の会2名、自民党改革1名、なら元気クラブ4名、無所属1名の13名で活動しています。

 初日は福島県庁を訪れ、福島県議団と懇談しました。参加されたのは日本共産党福島県議団の5名だけでしたが、それぞれの選挙区ごとに放射能災害の実態や県民要求も異なっており、充実した懇談となりました。

 「原発さえなければ、が県民共通の思い」
 「事故翌日に緊急避難となり、がれきに埋もれ助けを求める声に『また来っがらな』とこたえたのに、助けにいけなかった」
 「避難のバスの車中で命を落とした人、『お墓に帰ります』と墓地で自殺した人、焼身自殺した方もおられる。『原発事故で死者はいない』という高市氏の発言は絶対に許せない」
 「家族はバラバラ。避難所、仮設での暮らしは困難を極めている。県民全員が被害者。」
 など、2年半の活動を振り返りながらの懇談となりました。

 圧倒的な県民の声が、脱原発のうねりをつくっていることを実感しました。新日本婦人の会が請願した「福島第1第2の全10基廃炉を求める請願」は、事故直後の6月議会では否決されたものの、県議選直前の9月議会で全会一致で採択されましたが、その時のエピソードは非常にわかりやすいものです。9月議会ではいったん委員会で否決されたそうですが、有力な自民党議員が「これでいいのか!来月の県議選がたたかえるのか!」と請願採択をよびかけ、本会議では一転、採択されたそうです。


 その後、県生活環境部避難者支援課から、避難者の現状と課題についてお聞きしました。避難者15万人のうち今だに仮設住宅に入れていない方が107人おられること、仮設住宅の供与を4年間に延長したが復興住宅建設の目途がまったくたっていないこと、心のケアや孤立死予防が大きな課題であることなど、放射能災害により、まったく復興が進んでいない様子がよくわかりました。

 また、同じ生活環境部原子力安全対策課から、福島第一原発の現状と廃炉に向けたとりくみについてお聞きしました。汚染水漏れの事実が示すように、収束どころかどんどん状況は悪化しており、政府と東京電力は県に対し情報をまったく示さず、いつも当事者抜きの決定が押しつけられます。県として「廃炉に関する安全確保県民会議」を今月に立ち上げるなど、東電と政府に対抗できる力を持つための取り組みが紹介されました。
 



 ↑議員連盟を代表してあいさつをする山本進章会長(奈良維新の会)


 ↑歓迎の挨拶をする福島県議団代表の神山悦子議員(日本共産党) 
カテゴリ:震災救援2011 | 20:19 | comments(0) | - | - | - |
高市氏「原発事故で死者いない」と再稼働強調 批判あいつぐ


 自民党の高市早苗政調会長(奈良2区選出)は17日の講演で「福島第1原発も含めて死亡者が出ていない」と発言し、原発再稼働を強調しました。

 この発言は、原発事故により避難を余儀なくされている15万人を超える方々や、事故に関連して亡くなられた福島の1400人を超える方々を冒涜するものです。

 さらに過去には、美浜原発の配管破断による死亡事故、東海村JCO臨界事故による被曝死亡事故、原発作業員が被曝し白血病で死亡して労災認定されている事例などがありますが、これらを完全に無視したものです。しかも、同じような発言を繰り返しており、確信的な無反省と言わざるを得ません。

 「原発事故はたいしたことではないから再稼働しよう」という主張のようですが、私たちはこの2年あまり、人類と原発が共存できないという現実を目の当たりにしてきました。

 原発輸出のトップセールスをする党の政調会長の発言ですから、自民党の本音を語った発言であり、参院選でのきびしい審判が求められます。

カテゴリ:震災救援2011 | 08:55 | comments(2) | - | - | - |
放射能災害に苦しむ被災地を訪ねて




 「日本の渚100選」の美しい海岸は今…
  久ノ浜漁港、四ツ倉漁港、豊間海岸、薄磯海岸などを調査

 活動の合間に、津波災害のあった地域を訪問しました。昨年と比べて、がれきの撤去こそなされていましたが、家屋はすべて土台ごとなくなるなど津波の爪あとは生々しく、復興の道のりは遠いことを実感しました。薄磯海岸は日本の渚100選に入るほどの美しい海岸で、一昨年までこの時期は海水浴客やサーファーで賑わっていたそうですが、今は人っ子一人いません。




 ↑豊間中学校

 津波の被害に遭い閉校中の豊間中学校運動場には、集められた瓦礫がうずたかく積まれており、処理が進まない様子。現地の方にお話をお伺いすると、瓦礫の山から火災が発生する事態が相次いでいるそうで、一刻も早い処理が求められています。福島県の場合は放射能汚染の影響から、県内で処理を完結するのが政府方針ですが、焼却場の増設は遅々としてすすんでおらず、困っているそうです。



 ↑体育館入り口の大きく壊れた扉



サッカー少年のメッカは今…
  広野町・楢葉町 Jヴィレッジ前にて線量測定

 いわき市内のボランティア活動の拠点となっている復興共同センター(高橋明子市議事務所)から北へ車を走らせること約40分、原発20膳内の境であり、広野町と楢葉町の境に位置する旧複合スポーツ施設「Jヴィレッジ」前の交差点に到着しました。交差点には警察車両が並び、北進できず、東側のJヴィレッジへも関係者以外の立ち入りは禁じられています。
 11面の天然芝とスタジアム、近代的なトレーニングルーム、宿泊施設を持ち、1997年に建設されて以降、日本代表から少年チームに至るまで、約100万人が施設を利用し、約56万7千人が合宿を行ってきた施設だそうです。東京電力が原発増設の「見返り」として130億円をかけて建設し、地域振興事業の一環として福島県に寄付した経緯があり、日本サッカーの発展にも寄与してきました。
 現在は福島原発復旧作業の中継基地となっています。原発施設で作業している作業員の多くは、線量が比較的低いいわき市内のビジネスホテルに宿泊しており、1日当たり多い時は約3000人、少ない時は約1300人がJヴィレッジで防護服に着替えて原発に向かいます。作業が終わると、また戻って放射能汚染の有無をチェック。必要なら除染をし、車を洗って宿泊先に戻っていくそうです。
 交差点付近で放射線量を測定すると、0.65㍃sv/h、奈良県の線量のおよそ10〜20倍です。防護服姿の作業員を乗せた大型バスが何台もJヴィレッジから出ては北進し、第一原発に向かっていました。

 

走り回る野生化した乳牛、一方、繋がれた乳牛は骨と皮だけに…
 酪農家の悲しみと嘆き

 楢葉町では酪農を営んでおられた方が多く、一時帰宅の際に目にした悲惨な光景が話されました。「二度と帰れまい」と、避難直前に乳牛を放された酪農家もあり、町内は野生化して痩せた乳牛が走りまわり、一時帰宅の際に車と衝突する事故が頻発したそうです。一方、50頭近い乳牛を繋いだまま避難した酪農家では、骨と皮だけになり繋がれたまま餓死した悲惨な姿があったそうです。田畑は草原となり、自宅は荒れ放題。仮に放射線量が下がって帰宅できたとしても、二度と住めない状況です。


ネズミとアライグマの住み処に
 広野町の住宅街の現状に言葉をなくす

 楢葉町のすぐ南に位置する広野町は、福島第一原発から30膳内にあるものの、20膳外に位置するため、昨年9月末に「緊急時避難準備区域」から解除され、帰宅し寝泊まりも可能な地域とされました。その結果、東京電力から支給されていた生活保障のための一時金はストップされてしまいました。役場は再開していますが、人口5000人のうち町に戻っているのはわずか350人とのことです。まだまだ高い放射線量と、生活基盤である農業や産業の復興が進んでいないことが原因です。大きな住宅街もありますが、人っ子一人ありません。何軒も連ねて空き家状態が長く続くと、ネズミやアライグマが住み着いてしまい、人の住める状態ではなくなっているそうです。

 

 短期間のボランティアで、じゅうぶんな訪問活動ではありませんでしたが、放射能汚染に苦しむ被災者の生々しい実態に触れ、原発再稼働を強行した野田政権への怒りがこみ上げてきました。同時に、原発ゼロを目指す運動の広がりに、被災者がおおきに励まされていることも事実です。「兄ちゃんら関西の人は琵琶湖の水を飲んどるんじゃろ。大飯原発がドカーンといく(爆発する)前に、政治をかえにゃいかんよ。」と力強く激励されました。

 県内でも被災地の実態を伝え、原発ゼロの運動に力を尽くす決意です。


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カテゴリ:震災救援2011 | 23:56 | comments(1) | - | - | - |
放射能災害に苦しむ被災地を訪ねて

ようやく落ち着きつつあるが…
  地域のネットワークづくりに奔走する自治会長さんの訴え

 第10仮設住宅(250世帯)の自治会長さんにお話をお伺いすることが出来ました。

 仮設住宅で暮らす皆さんは同じ楢葉町からの避難者ですが、元々住んでいた大字はバラバラで、半年ほどたってようやく連帯がうまれつつあるそうです。老人会が中心となり、週1回のカラオケ、月2回の詩吟、民舞、グランドゴルフなどに取り組んでおられます。

 「目標を持つことが大切」と話し合い、秋にいわき市内で行われる大会への出場を目指しているとか。また、仮設住宅の一角に町のサポートセンターが建設されており、介護予防のためのデイケアをおこなっています。

 「入居から約1年。仮設住宅に暮らす仲間については、ほぼ実情が把握できた。心配なのは借り上げ住宅で暮らしている人たち。楢葉町からの避難者の約半数が市内に点在しており、町役場ですら実態を把握できていない。きっと孤独な思いをしているだろう。」

 とネットワークの必要性を話しておられました。

 




「生き甲斐づくり」くんちぇ広場
 楢葉町の2業者が共同でスーパー出店

 
この地方の方言で「下さい」を意味する「くんちぇ」広場なるものが評判なので、訪ねました。
 車に乗らなければ買い物にいけないため「仮設住宅の近くに歩いて行ける商店があれば」という要望が強くあったそうです。昨年10月、楢葉町の北部で商店を営んでいた方と、南部で営んでいたライバル店のお二方が共同で出資し、仮設住宅の一角に「くんちぇ広場」というスーパーマーケットを開いておられます。

 「お客さんはみな地元の顔見知りなのでホッとする。地域の交流の場になれば。」

と店主は話されます。

 楢葉町の商店は雨漏りと停電でダメになったため、商売はゼロからの出発だったそうです。町がスペースを提供し、無利子で融資してくれたことが力になり、共同経営に踏み切ったそうです。

 「海岸沿いで育ったものばかりなので、魚は欠かせない。お客さんからリクエストがあれば、近くに中央卸売市場があるので北海道や九州の魚を仕入れてさばいてる。そのほかの商品も、注文に応じて仕入れたり、配達したりしている。儲けにはならないが、楢葉の人の役に立っていると思えることが生き甲斐になっている。」

と話しておられました。


 ↑きさくな店長さん


 ↑新鮮な魚介類が並ぶ

「東電と交渉するときのために、取ってある」
   85歳の元養蚕業者の決意

 楢葉町では知らない人はいないというほど有名な元養蚕業者の男性とお話しできました。「大臣賞を2回受賞し、全国から研究者が視察にきた」と懐かしそうに話すお話ぶりに年齢を聞くと、なんと85歳です。被災前は5町歩の田んぼを耕しながら、養蚕業を営んでおられたそうです。

 事故後、東電に営業補償の計算をしてもらったところ、日給¥3000にしかならず、原発関連社員の日給¥13000と比べあまりにもの格差に驚き、怒りがおさまりません。

 「娘が有名な国立大学の農学部を出て、妻と3人でやってきた。若い頃からどれだけ苦労して、投資をしてきたか。将来、東電と交渉するときのために、写真を大事にとってある。最後までたたかう。」と話しておられました。手にしたアルバムには、嫁いできたばかりの奥さんと苦労して養蚕を営んできた様子や、大学で研究を重ねた娘さんとともに養蚕の近代化を図ってきた様子がよくわかる写真が貼ってありました。


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